2018年10月31日水曜日

ベーシックインカムと教育


    教育について考えなければならない時になってきた。
    資本主義が行き詰まり、AI(人工知能)の広範囲な社会へ
    の浸透により、ベーシックインカムの様な社会構造の変革
    が進んでいこうとしている時、それらを支える教育の質
    的改革も又必要のように思う。
    

 資本主義システムの安定な成長には、大量生産と大量消費の平行的な
 バランスが不可欠だとされている。 
 格差社会では低所得層の購買力は低く、大量消費への寄与は減少する。 
 僅かな人数でしかない高所得層の寄与はあり得ない。 この様に社会の
 不安定状態が続き、その解決策としてベーシックインカムという制度が
 提案されている。 
 更に未だ先の話だろうと想われていたAIの社会進出が急展開し始めた。

 色々な分野への投入が考えられ、20年後には現在の仕事の約50%が、
 AIにとって変わられるという予測がある(オックスフォード大学調べ)。

 AIの登場により、現在の雇用数の半分がAIに取って代わられるというも
 のである。 これはかつての産業革命の時の事情とよく似ている。 
 導入された機械を、失業者が破壊する事件が頻発した。 この様にAI導入
 によるマイナスは、資本主義の救済以上に深刻な問題である。
 資本主義システムの安定、AI導入のマイナス補助という両問題に対して
 一番有力なものは、ベーシックインカムという考え方が多い。 

 このベーシックインカムの導入、 AIの進展に伴う社会構造の変革が予想
 されうる。
 重要な変革なだけに未だ導入の可否についての議論が多い。 
 しかしスウェ ーデンのように試験導入を行っている所もある。 
 実行後の問題を議論する事も重要だと思われる。         
              
 ベーシックインカムとは全国民の生活費の全額を政府が保証す
 るというものである。
    1)保証に必要な財源をどうするか
    2)人間は働かなくなるのではないか等、問題は山積みである。
 教育に関連するものとしては 2)である。 本質的に仕事とは何か?
 今迄の様な雇用主に雇われ、その枠内で仕事をする。 仕事がその様な
 ものだと人は確かに勤労意欲を低下させるかもしれない。仕事の本質を
 考え直さなければならない。 それに応じて子供の教育をも考え直さな
 ければならない。 
 例えばもっと独創的な子供に育つには? 
 己のアイデンティティを強く持てる子供に育つには?

 上記の問題の解決は、AIの拡散によって期待される思考の世界の変革と
 無関係ではないように思われる。
 AIが持つ特性は、知の高速度な会得、広範囲に渡る会得、正確高精度な
 会得等々という事ができる。
 そのAIの広範囲な浸透により我々の思考が更に深く、広く、敏速に、
 微細に、適格にと昇華されて行くならば、思考の大きな変革が起こりう
 ると期待する事は無謀だろうか? 
 それらに支えられた逞しい製作力を蓄えた学びと言うものに変換されて
 行くと期待する事ができないだろうか。
    
          秋のめぐみ     (大串 昭子 撮影)
         
    
 ベーシックインカムの試みと現状              
   
    1)スイス
     2016年ベーシックインカムの施行について国民投票にかけられ
    働いている、いないに関わらず国民一人当たり約27万円、未成年
    には約7万円を支給するというものである。 財源確保や勤労意欲
    低下が懸念されて否決された。
        
    2)フィンランド
     2017年、試験的にベーシックインカムの導入を行った。
    無作為に選ばれた失業者2000人に、毎月約68000円を支給し続け
    る。 その結果については、現在色々な報道が行われている。また 
    ”限定的ベーシックインカム” と言われるものも提案されている。 

    
3)アメリカのアラスカ州
     既にベーシックインカムが導入されている。アラスカの石油
    産業が基となっている。州営の公益ファンドがベーシックイン
    カムの資金を支えている。

 その他 オランダ、カナダ、ブラジル等でも部分的、限定的に
 行われている。                        

2018年9月13日木曜日

   宗教と科学          -親切と健康長寿の意外な関わりー


       
   科学の急速な進展によて我々の知性では解決できない事象が数多く
    顔を出す時代になってきた。体の痛いところにはすぐ手が届くように、
    進展極まりない科学の成長過程の中では、我々が聖書に急接近するチ
    ャンスがあるのかもしれない。科学と宗教は別の世界と考え易いけれ
    ども、万物は神の御手により創られたもの。我々はその存在している
    形象を紐解いては喜んでいるのかとも思う。


 
1) 最近発表された興味あるものの1つに、カリフォルニア大学ロサンゼル校
(UCLA)のスティーブコール教授(Steve W Cole,Ph.D.)の研究がある。この研究に刺激・影響を受けて行われた148の研究(対象者およそ30万人)をメタ解析(Meta-Analysis)複数の研究の結果を統合し、より高い見地から分析すること、またはそのための手法や統計解析のこと(Wikipedia))実施した結果、健康長寿、筋肉、血管を強化する力が最も大きいのは、意外にも人との繋がり”人への親切”である言うことである。
これらの結果は、今まで注目されてきた健康長寿の方法である、食事療法、肥満解消、運動や禁煙等からすると意外なものである。しかし、スティーブの研究への信頼性は高く、お互いに繋がりのない孤独者の多いイギリスでは、スティーブ等の研究の影響もあり、実際に孤独担当大臣(Ministry of Loneliness)誕生した(2018118日新設)。
ステイ―ブ等の研究では 、人に親切な行動1日に3回、1ヶ月間行った人は体内の炎症を促す遺伝子の発現を抑える事が出来るだけでなく、脳内構造までもが変化すると発表されている即ち人と関わる事、親切にする事によって、健康長寿に大きな影響を及ぼすというものであった。 
 
これまでの常識として、健康長寿を達成するためには運動をする、健康的な食事をする、肥満解消に努める、禁煙をする等、自身の体働きかけるものであった。 

それとは対照的に、ステイ―ブ等の研究は、の人への働きかけ、即ち‟人に親切にする””人の輪に加わる”こと等を通して自分自身の筋肉・血管を強くし、免疫力を高めるというもである。他の言葉で表現すると、人への働きかけを通して得る心の幸福が直接、体の健康へと繋がるという考え方である。今までの健康長寿への達成手段とは大きく異っている。
ガッテン201866日放送及びその中の文献
 
最近、遺伝子研究を代表に、科学の異常な発展によって、この様な領域にまで人間が踏み込んで良いのか? 神の領域ではないのか?等の多くの議論を呼んでいる。
例えば、遺伝子組換によって癌細胞に関与する遺伝子の部分を取り去り、永久に癌を除去する等、神によるプログラムを永遠に、また、完全に消し去ってしまって良いものかどうかというのは、誰にも解らない。この様な神によって計画されたプログラムと,最先端科学は一線を画して接するようになってしまってきている。今からの行く末を案じる時、我々の知性はもはや解決策を与えてはくれないようである。だからこそ、我々の内なる世界、心、その拠り所である宗教が大きな役割を果たすであろうと言われるのも頷ける。 


      長谷寺 良縁地蔵        (大串昭子 撮影)

人に親切にするという“親切”の更に奥深い言葉は“愛”である。キリスト教を例にとってみよう。キリスト教をひと言で言えば “神は愛である”(1ヨハネ4章8)という聖句で表わされる。           
 
そして、聖書の中では愛は二種類の愛に分けられている。
1つ目はフィレオーfilia)の愛ある。 
それは肉親の愛であり親子、兄弟、男女の間での愛である。これは低位の愛に属する。
2つ目はアガペー(agape)の愛と呼ばれている。 
それは全く私心の無い愛、無私の愛・無償の愛である。あえて人に親切を行う想いも、このアガペーの愛に含ませておこう。それは下記の聖句の中に含まれいるからである。
“愛は寛容であり、親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。........  (第一コリント134-8節)”
信仰とは信じって仰ぐ事であると言われている。‟見ずして信じる者は幸いである”(ヨハネによる福音書201920節)。しかしその様な聖句を見ても信じきる人は中々いない。 聖書の中に‟汝の敵を愛せよ”という句がある。しかし我々は、言葉ではこの句を理解しても、なかなか実行はできないのである。それはきっと、上記の聖句を実行してもその結果に関しては何も触れられていないからではないかと思う。
 
しかし、スティーブの結果を借りて次元を下げて言い換えれば、「“親切“にしなさい(敵を愛しなさい)」、「その結果、あなたは恵を与えられる。」と解釈できる。つまり、人に“親切”にすれば,遺伝子は変わり、脳内構造までも変化して、あなたの健康長寿は守られますよという事が科学的な結論として代弁されるのである。神が創造された遺伝子が、私達の日常の行為、‟人に親切”にする事で変化し、その結果、脳内構造を変化させて行くのを見るまでになって来たということである           
神に祈るということが如何に大きな恵を与えてくれるものかという事を信じたい。 
何故か? 神への祈りは ‟心を尽くし精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、あなたの神である主を愛しなさい”(マタイ伝、2234-40節)と表され、これは“親切心”より遥かに深い思いである。 特に大きな壁に思える ‟汝の
敵を愛せよ”という聖句は、そうする事で、その人への大きな福音に繋がる言葉であると考えても良いのではないか。
マタイによる福音書5章には ‟右の頬を殴られたら左の頬を差し出せ”とある。書には、この様な命令系の聖句が多い。 凡人には成し難い聖句である。しかし今この時代に試みるべき(?)聖句であるように思える。
魂がコンバージョン(転換)し、常に神の思いを帯して歩ける者である為の一つの方法として ‟大悪は大善也”という禅宗の言葉もある。 是非達したい境地である。人の為に祈れ、神に祈れ。その祈りはあなた自身に帰ってくる。至って実利的ではあるが、ただこの事を信じるだけで、あなたの周りは豊かな恵みに満たされる。
今まで聖書の世界を、科学的言葉で解釈する事は不遜であるとされてきた。しかし今は我々が切実に神の世界を望み仰ぐべき時代であるのではないか。少々不遜であっても、この際、許して貰う事とする。
 
人類は15950発の原爆・水爆を抱えている(ストックホルム国際研究所べ)。地球上を焼野ヶ原にし兼ねない量であるが、我々はその置方を知らない。所有国首脳の一言一句に肝を冷やしながら暮らさなければならない。また、最先端の科学技術(遺伝子を含む)は、生命を異常な世界に導きかねない状態である。
とても気がかりである。